コンテストに出品し始めて2年目の頃、審査後の個別の講評で、福岡バラ会の小林正子会長が次のように言われた。
『ばらを見ると、その出品者がどのように栽培に取り組んできたかがわかる』
『えっ、すべてお見通しなの?』とビックリしたが、でもその指摘を私の専門である写真撮影に置き換えてみれば、そうかもしれないと思った。写真専門学校の講師だった頃や、その後も若い写真家たちと一緒に写真表現を考えてきた中での経験だが、「作品」と呼べる写真には撮影者の技量や感性はもちろん、撮影に取り組む姿勢、注ぎ込んだ時間、その世界観や生き様までもが見える。正確に言えば「見えるような気がする」のだが、それが的外れだったことはない。
長年にわたりバラ栽培に取り組んでこられた小林会長からすれば、私のような初心者が栽培したバラには、様々な失敗や迷い、わかっていないこと、あるいはちょっとした喜びも含めて、栽培の全てが "モロ見え" なんだろうと思う。
作品の中に作者が見えるなら、その作品はまだ「表現」にはなっていない。表現と自己表現はまるで別物で、優れた作品からは作者の姿は背後に消え、見る側はそこにある世界とストレートに向き合う。
たびたび引用するが、映画「花戦さ」での 池坊専好(初代)の言葉(映画の中の"セリフ"/原作:鬼塚忠 脚本: 森下佳子)「花の中にはほとけがいてはる」というのは至言だ。花の中に見えるのは、作者の池坊専好ではない。
「ほとけ」は私にとっては「真理」あるいは「美」と同意語。同じ花を見てもそこに見えるものは人によって違う。「見よう」と積極的に探さなければ、「花の中のほとけ」は見えてこない。
私は何を見ることができるだろう。