このブログについて


バラの栽培についての考え方や方法は多様です。その多様性こそが、バラが文化として豊かであることの証左なのでしょう。
"答え"は一つではないとすれば、バラ栽培の楽しさは、"自分のバラの世界を見つけ出す" その過程にあると思っています。

このブログは試行錯誤中のバラ栽培の記録です。一部の記事はバラ仲間に私の方法を紹介するために書いたものもありますが、
「栽培ガイド」の類ではありません。バラ栽培を始めた頃に書いた記事の内容は現在の栽培方法とは異なるものも多く、
技術的にも拙く、論理も雑駁で、誤謬も多々含まれていると思われます。批評的に読んでくださるようお願いします。

お知らせ

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2023年10月15日日曜日

そらの サンサーラ

「自分はどこからきてどこへいくのか。自分はなにものなのか」

 "サンサーラ" は サンスクリット語またはパーリ語で、原義は「彷徨うこと、歩き回ること」
仏教では「輪廻転生」を意味する。

このブログのページビュー数が50万を超えた。 が、その実感はない。継続することの苦手な自分が、ブログは何度かの長い中断がありながらも、バラ栽培を12年間も続けてきたことに驚く。

"50万ページビュー" というのは、自分が見た回数をカウントしない "Block Cookie" を設定しているので、ほぼ実数。閲覧者の多くはスマホを使って検索サイトから来られるのだが、"デービッド接ぎ" 以外は、たぶん探してある情報は見つからないだろうし、"スマホフレンドリー" ではないことも気になる。が、このサイトには別の目的がある。

「ローズそらシド」の最初の記事は、今から12年前 2011年7月の「ブログなんか大嫌い」。そこに自分がとりあえず進む方向らしきものを書いている。

『表現に値する自己などあるのか?』と自分自身を嘲笑しつつも、私が探し求めているテーマは、バラの栽培方法ではなく、「自分はどこからきてどこへいくのか。自分はなにものなのか」ということなのではないかと思います。それを見つけていくためには「書く」こともひとつの有効な手段ではなかろうかと思うのです。

これが自分の輪廻転生の何回めかのスタート点。サンサーラは、「そらのメメント・モリ」を経て、今に続く。
バラに生かされてきたこの期間に、得たものもあったが、途上で何が大事なものを失ったような気もしている。

  Paul Gauguin,   "D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?"
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』1897年 - 1898年 ボストン美術館・蔵
Public domain, via Wikimedia Commons

六道輪廻

仏教徒ではないし、そもそも信仰心もないが、「色即是空 空即是色」(般若心経)に象徴される仏教の世界観や、一神教の「神」のような絶対的な存在に頼らない釈尊の教えには、どこか惹かれるものがある。

ただし「空」という言葉は般若経など大乗仏教のもので、最も古い仏教経典集で釈尊の言葉に近い「阿含経」に出てくるだろうか? 「空」という概念は、阿含経の「無」の発展系ではなく、対立する世界観なのかもしれない。
また、大乗仏教は絶対的(救世主的)な存在として例えば「阿弥陀如来」などを説くようだが、『南無阿弥陀仏』と唱えることで極楽往生するというような、"信仰" の世界は自分には無縁のもの。

衆生 は死んだらまた生まれ変わるという輪廻転生を繰り返す」と仏教は説く。 によって 六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)のいずれかに生まれ変わり、そして、そこでも死に、また生まれ変わる。それを繰り返す。釈尊はこの果てしない輪廻転生を「苦」と捉え、"自分を見つめること" でそこから解脱する道を説いた。

仏滅からおよそ1000年後、ペシャワールの僧・ヴァスバンドゥ(世親)によって記された「阿毘達磨倶舎論」の中の「世間品」には仏教の宇宙観と六道が具体的に述べられている。1500年も前に描かれたワンダーランドの見取り図はじつに壮大で、中でも地獄道の描写は想像力豊かで圧巻。逆に、天道はいささか退屈な世界か?

でも、天道も「欲界」の一部。美しい天女たち(薔薇)に囲まれて幸せな日々だが、その色香に迷わされ我欲が生じると、畜生道のチュウレンジハバチか何かに生まれ変わって、バラを栽培する人間に捻り潰されるか農薬を浴びせられて、理由もわからないまま殺される。

チュウレンジハバチが "今生で善業を積んで" 他の道へ転生できる可能性は極小さいのだから、人間道にいる衆生は今こそ輪廻転生から解脱する機会であること、それに至る方法(人として歩むべき道)を「戒・定・慧(三学)」(など)と釈尊は説いている。教えの核心は、自分中心のものの見方からの脱却。 "自己中" な自分には耳が痛い教え。

 世親 像|運慶|興福寺 写真:藤本四八 Public domain, via Wikimedia Commons
 六道輪廻図(チベット仏教の仏画)。「死」が輪廻世界を支配している
Stephen Shephard, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

輪廻図に描かれた六道は、上から時計回りに 天、人間、餓鬼、地獄、畜生、修羅。
天や地獄を含むこれら六道のすべての衆生は、やがて死に、そしてまた生まれ変わる。

でも、もしかして、六道いずれかへの転生はこの肉体が死んでからのことではなく、今のこの時空が
六道そのものなのでは。多次元で、人間道も天道も地獄道もすべての道が混在して、今 ここにある。
    

そらの宇宙(そら)

 多次元の宇宙をあえて2次元化すると

左上の、境界が曖昧な黒点が自分。修羅道か孤地獄道あたりを彷徨っているようだが、自分をなす汚濁の闇があまりにも深く、周りはほとんど見えていない。中心に何かがあるのはなんとなく感じるが、それを遠巻きに一周するのに何年もかかった。現在地や宇宙の大きさ、中心との距離感を掴めないまま、同じようなところをノロノロと何度か周回している。元に戻っても生まれ変わるわけではないので、輪廻とは呼べないかも。

自分のこの肉体が死んだら、"自我" を含め「自分」を構成していた要素のすべてが微塵に砕け、やがて、中心部に吸い込まれて光になって無限の空間に消える、と思っている。死後に「自分」は存在しないから、転生はない。

釈尊(ゴータマ・シッダールタさん)が生きた2500年前も、自分を唯物論的に捉え『死後の世界などなく、輪廻転生はない』という世界観を持った人々がいたらしく、彼らは仏教徒から "外道" と呼ばれたそうな:p

外道の私には、死はこの時空と自分からの "他律的だが、絶対的な解脱"。今のサンサーラは、たぶん最後の一廻りになるだろう。さて、どのような境地でバラ栽培を仕舞うことができるだろうか。

諸行無常 諸法無我

「ブッダ 100の言葉」  佐々木 閑 訳・監修 宝島社 から引用

諸行無常

「因果関係によって作り出されたすべてのものは無常である」
と智慧によって見るとき、
人は苦しみを厭い離れる。
これが、人が清らかになるための道である。
                     —— ダンマパダ 277
    

一切皆苦

「因果関係によってつくりだされたすべてのものは苦である」
と智慧によって見るとき、
人は苦しみを厭い離れる。
これが、人が清らかになるための道である。
                     —— ダンマパダ 278
    

諸法無我

「すべての存在に、自我なるものはない」
と智慧によって見るとき、
人は苦しみを厭い離れる。
これが、人が清らかになるための道である。
                     —— ダンマパダ 279
    
佐々木 閑 「ブッダ100の言葉」 より引用

 無明に支配されている人は「諸行無常」が理解できず、そのために「自分=自我」というものに対して誤った認識を持つ。「この世には自分という、不変の実体が存在している」という思い込みである。そしてその思い込みを土台にして世界観を創作し、自分に都合のいいようにものを見る。

 しかし、ブッダは、そもそも自分などなく、自分中心に世界をとらえるのは、愚かの極みだと説いた。

薔薇と諸法実相

一輪の薔薇も、自分も、この世のすべては諸行無常。この歳になればそれは実感としてわかるし、自己中が愚かの極みだということも、自分のことなので、分かっているつもりだ。

「諸法無我」については、大乗仏典の「法華経」(鳩摩羅什・訳『妙法蓮華経』)は「諸法実相」を説く。

諸行無常の中にあっても、生命の美しさに心揺れる一瞬は、諸法実相 — 真実の姿 究極の真理 ほとけ —  の顕現なのではないだろうか。

それは  "五感と意識の刹那的なもの"  に過ぎない ーーとして、釈尊は「諸行無常  一切皆苦  諸法無我」を説いたのであろう。

でも、いつか一瞬なりとも、「花の中に御坐すほとけ」に出会いたいと願う。

それもまた凡夫の愚かな執著に過ぎないかもと嗤いながら、無明の孤地獄にいて、進む道は見えていない。ただ、一筋の光明があるとすれば、それは (前掲の) ダンマパダに説かれた「人が清らかになるための道」。

犀の角の如く

釈尊は諭す。

  究極の真理へと到達するために精励努力し、
  心ひるむことなく、行い、怠ることなく、
  足取り堅固に、体力、智力を身につけて、
  犀の角の如く、ただ独り歩め。
  
                 —— スッタニパータ 第1ー68 佐々木 閑:訳 
    

500,000ページビューの夜に

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